No.297
見送り
ずいぶん昔の話を、ひとつ。
知り合いに、長く写真館を営んでこられた方がいた。
若い頃に、奥様とただ一度だけ訪れた海辺。
その風景を写した一枚を、その方は、生涯、大切にしておられた。
「もう一度、あの場所に、自分の足で立ちたい」
それが、最後の願いだったという。
けれど、どこで撮ったものか、ご本人にももう思い出せなくなっていた。
あの方も、奥様も、晩年は同じ病で、
少しずつ、いろいろなことを忘れていかれたのだそうだ。
奥様・和子さんの名前さえ、最後には思い出せなくなっていたと聞く。
その場所を、先日ようやく見つけることができた。
あの方は、もういない。
それでも、ご家族にだけはと思い、伝えに行った。
娘さんは、静かに微笑んで、こう言ってくださった。
「もう、お気になさらないでください。父のために、あんなに一生懸命になってくれた人がいた。
それだけで、じゅうぶんなんです」
その言葉は、本当は、私ではない、もう一人の誰かに向けられたものだ。
いつか、そいつの心の整理がついたとき、伝えてやりたいと思う。